◎信心の方向。焦点。神様への親孝行の心持ちでの信心。これが一番間違いのない方向。向きが変わればおかげの方向も変わってくる。
%1親先生が最近はっきりと分かられた事。
%2福岡渡辺先生の日参。
%3秋山さんの息子の受験のための夜参拝のはずが、方向が変わってきた。
%4親教会の初代霊様あっての親先生の親教会への思い方。
%5田主丸田代さんの一年祭。生前の田代さんの信心ぶり。
昭和四十三年二月二十二日 朝の御理解
X御神訓 「神はわが本体の親ぞ信心は親に孝行するも同じこと。」
%V%1これは、最近、はっきりこうだと分からせられる事は、お互いの信心の方向と言うものが変えられる。それが方向を変えただけでも完全に、その表れてくるおかげの方向も変わってくるということである。例えば、右を向いておる舟が左の方へ方向を変える訳ですから、もう完全に行く所は違うのですよ。もう、ここんところが、いよいよ最近、私は、はっきり分からされる気が致します。
%V%1久留米行きの方へ向いておったのが、日田行きの方へ向きを変えたんですから。到達する所が、全然違う事がはっきりしたことなんですよ。信心は、私はそこんところをいつも焦点と申します。焦点が間違ったんでは駄目だ。それがどこを焦点に、「どちらの方へ向きを変える」ということが、「一番大事か」という事をお互い分からしてもらう。
%V%1もう、全然変わってくるんですよ。皆さんの方向は、どういう事になっておるでしょうか。「合楽」と言う、例えば大きな船に乗っておるから、みんな同じ方向に行っておるということじゃないのです。信心は親に孝行するも同じ事ぞやと、「こう」おっしゃる。その信心は親に孝行するも同じ事ぞやと、おっしゃる。そういう方向になっておるかどうか。信心は、親孝行の心持ちでの信心に、なっておるかどうか。これが一番、間違いのない方向なんです。
%2寒中修行がありますし、始まります頃から、福岡の渡辺先生が日参しておられます。寒中修行が「終わる迄」と思いよった。段々、お参りさして頂くうちにです。 「寒中修行が終わる迄と思いよったけれども。終わる頃には、これは、「一年、二年」と言うて決めるものじゃない事が分かってきた。
%2しかもそれが、もう当然、この様なおかげを頂いておる私としては、合楽通いは、もう当たり前の事として、お参りが出来るようになったと、昨日、お参りして言うておられます。これをお願いせんならんから、どうでも、こうでも修行しょう、お参りしょうと、「こう」言うのじゃないのですよね。何かそこにきっかけはありますね。
%3昨日、秋山さんが言っておられますように、なるほど、今、朝の御祈念に参る、夜の御祈念に参ってくる。せめて、こういう難しいお願いしておるのであるから、せめて、夜の御祈念ぐらいはという訳です。息子が今度、高校受験なのである。先生は「ここは難しか」と、言われるけれども。神様は「ここ」と、非常に難しい学校へ指定して下さっておる。
%3だから、これは親として当然、ここに踏ん張った信心をさしてもらわないけん。この事を機会に、信心を一段と「進めなきゃならん」と言うので、夜の御祈念に参ってこられる。その息子の受験が合格するとか、合格しないと言ったようなことは、もう非常に、希薄なもの薄いもの。
%3ただ、これを機会に、こういう信心がでけてくるということが「有難い」と言うような事を、昨日、言うておられますね。何かこの頃、最近、信心をもちっと、しゃんとせな、しゃんとせなと思わして頂いているところに、そういうひとつのきっかけがでけた。そのきっかけが、それであったけれども、目的は目指すところは全然違ってきた。
%3いわゆる方向が変わった信心になってきた。だから実に楽なんです。どうでも、こうでも、これをこうしてもらわんならんからと言うような、張り詰めたようなものではない。それでいて、心豊かな、何とはなしに心掛けさえすれば、このような信心も出来るんだと言ったことが、「体験させられます」と言うてから、昨日お届けしておられます。
信心は親に孝行するも同じ事。何かこう、親にはこうせんならんもんだと。もう取って付けた様に、まあ、親を、例えば大事にする。親孝行てそんなもんじゃない。なあにもないごとある。それが当然、当たり前の事としてなされていく。
%4私共も、思いますですねえ。例えば、道の親、手続きあたりで言うなら、「善導寺の親先生」。本当に親先生にはですね。本当に親に孝行するも同じ事ぞやという信心を持って、親先生に接せられるようになられることが、私の理想である。願いである。
%4ところが、それであっては、私と善導寺の仲がうまくいかない。あまりに淡々としておる。そこでどうしても、善導寺の場合、必ず人間心を使う。それはもう、弟子として、子供として当たり前と言われれば、当たり前ですけれども。そんなもんじゃない。淡々として、その本当に、だから私、思うんですけれども、人間の何と申しましょうかね。人間同志では、やはりね、そういう見方が。
%4結局、こちらが、信じられていなからではありますけれどもです。結局、やはり、「親に信じられる」ということが大事なんですね。でなかったら、本当の信じられるということが、結局、親に孝行するも同じ事と言う信心が出来ればいいのです。
%4先日のお月次祭に、豊美と若先生がお月次祭におかげ頂きます。今頃、北野の教会が、お月次祭たんびにお参りになる。先生が参られん時には、お奥さんが参られる。北野あたりでは、こげんして参られんなら、家内でんちゃんと参ってくる。「あんた方のお父さんが、いくら徳が高いかしらんけれども。お父さんが参られん時には、お母さんが参らにゃ」と言われた事が、豊美にがくっときた訳なんですね。
%4私と勝彦と参りよるけん、よかでしょうがと、よっぽど、「言おうかと思った」と言う訳なんですよ。そんなら、私が参らん訳じゃない。例えば、月次祭の日、参らなければ、必ず、私があくる日お参りするのですけれどもです。その、あんたげんお父さんが、いくらお徳が高いか知らんばってん。もうこれには、私もやっぱり。これは親子で、言えれることじゃろうかと思うんですよ。
%4そして、煎じ詰めて思いますとです。結局、「私の親孝行の信心がでけていないからだ」と、こう思うんですけれども。そういう雰囲気の中にありますから、やはり、私が人間心を使うて。出来るだけ、親先生の心に添うように添うようにしていかなければいけないなあ。そこんところが間違ってくるんです。人間心で、「そう、そう」と思っておりますから。
%4そこで私は、そういう事がいつもあるんですけれども。そういう場合には、私はもう、夜、初代の荒巻弓次郎先生ですね、現親先生のお父さんにあたられます。もうその事を私は、「霊様」に申し上げます。霊様ならなにもかも御承知。だから、私は、現在の親先生には本当に親孝行の信心はでけんでも、「霊様」に対しては、ほんとに分かって頂くのですから。
%4私の、どうぞ霊様にだけぐらいは、「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」と言う信心をさして下さいと。もう実に淡々としてですね、それを合点して聞いて下さる。霊様が。そうすると、親先生がそうおっしゃる。そういう雰囲気なんかが、もう一遍に消えてなくなる気が致します。
%4なかなか信心は親に孝行するも同じ事ぞやと言うのはですね。そうきざな、ぎらぎら光るようなものであってはならない。私が、親先生がみえる、それこそ下にもおかないように。あゝいう事を、大体せんで済むような私になりたい。
%4ところが、そうしなかったら、そんなら、「師匠を粗末に扱うた」と言われちゃならんと思うから、もうそれこそ、私は、もうほんとに、親先生ということになったり、親教会のこととなったら、もう本当に、人間心を擦り減らすように使います。それも、信心と言ゃあ信心ですけれども。
%4そりゃあどうも、きざなぎらぎらしたものを感ずるのです。そして、それは親先生には通じるかもしれんけれども、神様に通うようなことはないと、私は思うのです。だから、馬鹿らしい事だと思うんですけれども。さあ、そこが人間の世界の難しさです。[情に竿さしゃ流される。智に走ればかたくなる]と言った様なですね。ことになってくるんですよ。もう本当に、これだけはいやでいやでたまりませんですねえ。
%4淡々として、信心は親に孝行するも同じ事ぞやというような。例えば、私がお参りが出来ておらん。あれにかぎって、親を粗末にするから参ってこんのじゃない。何かよっぽど都合のある事じゃろうと。こう親先生が思えてもらえるような、私にならにゃいかん。
%4あれがお参りしてこん。俺を、親教会を、「軽う考えとる」と言うような思い方をされちゃならんと思うから、気張った心というかね。これは、私と親教会の場合でございますけれどもですね。それでは本当の信心は、いわば、ひとつの型の中に填ったようなことになってしもうて、良い信心が育つはずがない。
%4私には、そこに、初代の荒巻弓次郎先生と言う霊様があるから、私と親は、もう本当に、ここに「善導寺あって合楽である、親先生あって私である」というものが頂ける。もし、霊様と私の関係が断たれたら、もう、おしまいだというような感じが致しますですね。
ちょっと、お話が横にそれましたようですけれども。信心は親に孝行するも同じ事ぞゃとか。それは私共がです、いわゆる、おかげ、おかげ、ご利益、ご利益ということだけが方向であったとするならばです、これは親孝行の信心じゃないでしょうが。神様から、「なんか、もらわんならん」と言うのですから。これは親孝行の信心じゃないです。
%2しかも私が、一番初め申しますように、「方向を右と左と変えるだけで、もう、全然違った世界がある」ということなんです。寒中修行の間だけは、修行の終わるまで、日参さしてもらおうと渡辺先生が一心発起された。お参りしておるうちにです。これは「ひと月とか、ふた月とか、一年間」といった年限を切ってするもんじゃない。これが、当たり前の事としてなされるところのおかげを、最近は頂いた。
%2ところが先生、最近、学校の雰囲気が全然変わってきたのには驚く。第一、自分も生徒達も不思議がっております。お帽子を作る学校ですから、その新しいひとつのデザインというかね。それが「はあ、先生これは素晴らしいですねえ」と生徒達が言うてくれる。それが私は、「こげんしょう、あげんしょうと思わんといて、こげんとがでけるとよ」とこう言うようにです。神様のひとつの働きと言うものを感じる。
%2とりわけ、最近感じる事は、帽子の色合いである。こういう色を出したい。あゝいう色を出したいと言うのじゃなくてです。そこに神ながらに染め上がっていく、「帽子の色」というものがですね。もうそりゃあ、本当に惚れ惚れするように、なんとも言えんような色が仕上がって行くそうです。
%2最近、「先生違いますねえ」と生徒達が言うてくれます。それは、先生の方向が変わったから、はっきり変わってきたんですよね。皆さん、本当の向きへ方向を変えなければ駄目ですよ。やはり向きを変えなければ。もうこれは、はっきり言える事ですよ。
久留米の方へ向かったら、久留米へ行くんです。日田の方へ向かったら、日田の方へ行くんです。日田の方へ向きながら、久留米へ久留米へと、久留米を求めておるような事はなかろうか。そこで一番間違いのないと言うのは、信心は親に孝行するも同じ事ぞやというような信心が分かってくる。「信心は親に孝行するも同じ事」という方向に変えられる。
%5今日は、田主丸の田代さんの一年祭が、今晩ございます。その事を、今朝、お願いさして頂きよりましたら、Z『松の実、又、松笠とも言いますねえ』を頂くんですよ。どういう事であろうかと「こう」思う。だから、松の実と言うことは、いわゆる、「合楽の信心の事だ」と、こう思うんですね。
%5「桂松平先生」とか、「石橋松次郎先生」と言うような、松の信心を根本にしたところが、合楽の信心ですから。その松の信心によって、私は、松笠のおかげを受けておられると「こう」思いました。松笠、笠は傘に通じますから、いわゆる「安心の霊」として、「今日のお祭りを受けられなさる」という感じでございます。
%5皆さんも御承知のように、永年、ここの総代を務めておられました。そして、教会のなにかと、まあ、信心も皆さんが御承知のように熱心でしたが。〔なにか〕という時には、もう率先遂行でしたですね。この方達、姉妹達は。例えば、その大きな、言うなら、御用なら御用でもです。それがもう、「当たり前の事として、なされていった」ですねと言うように感じられます。
%5田代さんの信心は、大祭なら、大祭が参りますと、もう、これだけの事をすることは当たり前の事としてなされてきた。いわゆる、当たり前の事としての還元が出来てきた。そこに、信心は親に孝行するも同じ事ぞやと言うような信心に。その方向はどうあったかもしれんけれども。なされておる事は、「そういう信心であった」と言う風に感じられます。厳密に言うとです。
%5それは私共が、信心のことでございますから、信心だけが、「焦点であった」とばかりとは思われませんけれども。しかし、なされておる事は、それが当たり前の事としてです。もう、合楽の総代の御用を頂いておる総代として、当たり前の事として、それがなされてきておった。そういう信心の功徳とでも言うかねえ。信心の徳が霊としても、いわゆる松笠のおかげの頂けるところの、「霊様としておかげを受けておられる」という風に感じるのでございます。
どうぞ信心の方向がです、変えられる。これはもう、はっきり言える事。方向が間違いのない方向へ向いとりゃ、間違いのないおかげの頂ける事は絶対なのである。ところが、私共の信心の方向と言うのは、少しずれたり間違ってはおりはせんか。方向をひとつ見定めさして頂いて、信心は親に孝行するも同じ事ぞゃと言うようなところへです。
渡辺先生じゃないですけれども。信心の修行が段々なされていくうちに、それが当然の事、当たり前の事としてそれがなされる。それがとても出来そうにもなかった事が、「嬉しゅうて、嬉しゅうて、有難うして、有難うして」と言う、気持で出来ておられる。勿論、神様へ向かうてくるその心の状態と言うものは、もう、「日々が楽しゅうてたまらん」という感じですねえ。
けど、ここへ来てから、電車の中から見る雪景色の中に、かかしが立っておる。一本足のかかしが、雪にいっぱい埋もれるように立っておった。そしたら、もう本当に、先生、私の実感なんですよ。「あのかかしを連れてから合楽にお参りしたい」と思うた。一切のものに、神心がこうやって通うてくるようになる。
私は、方向が変えられるとです。いよいよ、自分達の心の中に、頂けるところの「和賀心」、「神心」、これがいよいよ、厚う強うなってくると思う。ですから、方向が変えられれば、もう、絶対のそうしたおかげの雰囲気というものが、すでに、例えば、渡辺先生が言うならばです、学校全体の中にです。とても今迄とは、違った雰囲気が生まれてくるようなおかげになる。いよいよ有難いことになってくる。
けれども、なかなかです。私と善導寺の場合の例を申しましたが、本当に、こう説いておる私自身が、親教会に対して、信心は親に孝行するも同じ事ぞやと言う信心がでける。親先生は、どんどんお参りしたり、どんどんお供えしたりする事が、「親孝行」と思うておられるかもしれんけれども。私は、そんなものじゃあないと思うとる。もう全然観点が違うのですよ。
ですから、親先生の思うようにならんと、「あんたげんお父さんが、いくら徳が高いか知らんばってん」と言ったような、皮肉のひとつも、親先生も言いなさらなきゃならんようなことになり。それを受けるこっちも、ガクッとくるような感じになってくる。いかに、ここに焦点が、合わなければいけないかということを感じます。
けどもそれを、分かって頂くのは、初代荒巻弓次郎先生だと思うから、私と善導寺が辛うじてつながっておる。まあ、辛うじてつながっておると言うとおかしいですけど。これは、絶対につながるでしょうね。霊様がなくなられる訳がないですから。
ですから、私がふた言目に申しますことは、「善導寺があって合楽だ」と言うことになってくるのですけれども。そこで現在の親先生がです。霊様のように、今度、霊様になられてからです。「あゝ大坪は、あげな風に考えとってくれたばいのう」と言うのが、本当に分かって頂くようになった時がです。いよいよ私と善導寺の中に、「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」というような事が、なされるのじゃなかろうかという風に、思うのですけれどもね。
ところがです、例えば、人間じゃない。相手が神様なのです。今日、私が言うておる事は。ですから、私共が、方向さえ変えられればです。そこにもう、おかげの有難いという雰囲気が、私共の周辺に、感じる事が出来るようなおかげになってくる。そこに信心が楽しいもの、いわゆる信心は親に孝行するも同じ事ぞやとおっしゃる。その当たり前の事としての信心がなされるようになる。そういう信心をひとつ目指したいと思いますね。どうぞ。